遊・探・楽【More Amusing Tackle】ゲーム・検索・京都・萌え?
京都の話

京都の話 〜 京都にまつわる話を徒然に綴るコーナー 〜

Interesting story concerning Kyoto
博物館・三十三間堂

 おいでやす。
 ようこそ「京都の話」へご来場くださいました。 今日の話は「博物館・三十三間堂前」と題しまして、東山七条周辺ついて書こうと思います。

 東山七条といえば京都国立博物館を中心に、三十三間堂・養源院・智積院・豊国神社・方広寺などの観光社寺や妙法院、豊国廟などが集まる東山南部の観光の一大スポットです。清水寺・泉涌寺・東福寺なども少し距離はありますが歩いて行く事も出来ます。

 方広寺は豊臣秀吉が大仏(焼失)建立し、国家安康の鐘(国重文)でも有名な寺院。
 豊国神社は秀吉の霊を祭る神社で、伏見城から移築した唐門(国宝)や狩野内膳作の豊国祭図屏風(国重文)で有名。 境内には北政所ねねの霊を祭る摂社貞照神社もあります。
 豊国廟には今も秀吉が眠っています。 東山七条から山手へ徒歩15分。太閤坦(たいこうだいら:元豊国神社跡)から更に約560段の石段を上がります。

 京都国立博物館は正門と本館自体が国の重文に指定されています。 正門は普段使用されていません。 本館は、特別展示の時に使用されています。 常設展示は新館で見る事ができます。 ま、この博物館の紹介は公式ホームページにお任せして、マイナーネタを一つ。

 ここの博物館の正門・本館は1895年の竣工です。 当時は西洋文化の導入が始まった頃で、これらの建物もレトロ調の洋館に仕上がっています。 注目していただきたいのは本館正面入口の上の三角の部分にある彫刻。 ギリシャ・ローマ風なのですが・・・?
 人物が羽衣を着ているんです。 ギリシャ・ローマの彫刻はその肉体美が特徴ですが、当時の日本人には露骨な表現がはばかられたのでしょうね。 洋風の建物の雰囲気のまま、人物は中国の天女のような形で表現されています。 見ようによっては露骨な肉体美より萌えますな。(だいなしだから。)

 博物館を出て七条通を横断すると、右手に三十三間堂があります。 が、ちょっと後にして、先に養源院を訪ねましょう。そのまま三十三間堂を右手に見ながら50m程直進した左手です。

 養源院は1594年に淀君が父・浅井長政の追善のために建立したお寺ですが、火災で焼失。 1621年、淀君の妹・徳川秀忠夫人が再建、以来徳川家菩提所となっています。
 ここのお寺の呼び物(?)は血天井。 天井の板に、人の血の跡が残されています。「天井に血の跡? おかしいやンけ〜」とおっしゃるのはお待ち下さい。ここのは本物です。

 こちらの天井には伏見城の旧床板が使われています。 伏見城は関ヶ原の合戦の前、家康の家臣・鳥居元忠が文字通り「死守」した城。 鳥居元忠は自害しなければならなくなりましたが、彼の頑張りが豊臣方の足元を崩し、西軍の東進時間を稼ぎ、家康の勝利を呼びました。
ところで、細川ガラシャって名前、萌えません?(超だいなしだから。)

 養源院を再建する時、元忠以下の将兵を供養する為に、自害場所の床板を天井に使用したのです。 当時の戦乱の中、伏見城の将兵の遺骸は長く放置されていました。 ですから、ここの天井には人の倒れた跡、手の跡、鎧の跡などが今もハッキリと残っています。 よく見ると苦しげに床を掻いたような跡も残されていて、激闘の末自刃した兵の悔しさが伝わります。

 養源院の方丈の杉戸に描かれた仏典に関係のある動物の絵も、供養の為のもの。 これらの絵は俵屋宗達の筆によるもので、国の重文です。 特に白象は有名で、色々な観光案内書に写真が載っています。
 他にも宗達作の襖絵(国の重文)、狩野山楽作の襖絵などが残されています。

 それでは、三十三間堂に向かいましょうか。
 三十三間堂の正式な名称は「蓮華王院」。 1164年、後白河法皇の命で平清盛が建てたと言われています。

 あ、チョット待って下さい。 養源院を出て左手、大きな門が見えませんか? 堂々としてますが、何だかパッとしない門ですね。 でも聞いてビックリ、こちら1600年製・三十三間堂南大門です。 国の重文。 でも、その下を車で潜れるんですね。 京都ならでは、重要文化財の大安売りです。(シバかれるぞ。)

 三十三間堂本堂(国宝)は1001体の千手観音菩薩を納めるためにヤタラと横に長いので有名です。 三十三間と言うと「一間は1.8mだから約60mあるのかな」と思いがちですが、実は長さ118m!! 奥行きは9m程ですから想像以上に細く、長い。 木造としては日本一長い建物です。

 では何故三十三間なのか? 実は、建物に柱が34本あるんです。 柱と柱の間が33コあるから三十三間堂。 判り易いなぁ! わからない? んじゃ「植木算」の復習ね♪(そのネタ前回使ったヨ。)

 こちらの1001体の千手観音は三十三身の変化で衆生を救うので33033の観音がいらっしゃる事になっています。 本尊を中心に左右に10段50列並ぶ観音様は、丹念に見て行くと必ず故人の面影がある観音様がおられるとか。 作った仏師も大物ばかりで、運慶・湛慶(運慶の長男)・康助・康朝・康慶など名だたる仏師70名によるものだそうです。 また、観音二十八部衆(国宝)や風神・雷神像(国宝)なども安置されています。

 ちなみにここに有る風神雷神様は、同じ東山の建仁寺にある俵屋宗達作の風神雷神図屏風に描かれたもののモデルさんだとか。

 ところで三十三間堂の棟木に使われた柳の木の逸話、御存知ですか?
 この柳の木、熊野の山中に生えていたのですが、何百年を生き、100mを越える立派な柳。 この柳の精「お柳」は恩義のある武士・横曽根平太郎と契り、子をもうけました(雪女伝説に似てる!?)。

 ある日、自分が切り倒されて三十三間堂の棟木になる事を知った「お柳」は恩を胸に別れを告げます。 いよいよ柳が切られて都へ運ぶ段取りになったのですが、どうしても柳は動きません。
 そこへ通りかかったのが平太郎の息子。彼が音頭を取って柳を運ぶと楽に動く・・・。 これを聞いた法皇は彼にたくさんの賞を取らせ、柳は恩返しをした・・・と言うお話です。

 物語上では柳の木と後白河法皇自身にも前世の縁があることになっています。 こちら、宝暦年間に「祇園女御九重錦」として芝居で上演された名作です。 柳腰萌え♪ではありません。(まだ言うか。)

 さて、「通し矢」でお馴染みの三十三間堂ですから、江戸時代に行われた大矢数(おおやかず)の記録の話も。
 現在でもお正月になると、凛々しい姿の若人たちが三十三間堂で矢を放つ風景をテレビでご覧になるでしょう。

 もともと「こんなに長いお堂の軒下を、矢で射通せるか?」という風流かつ血気盛んな余興から始まった三十三間堂と弓矢の関係なんですが、江戸時代には「ビックリ日本新記録」よろしく、「大矢数」という競技大会が開かれていたのです。

 大矢数は一定時間内に「118mある本堂の軒下の一方の端から矢を射て、もう一方の端の的に当てる=通し矢」本数記録を争うものです。
 暮六つから翌暮六つまでの一昼夜が刻限。 もちろん、軒下を通すのですから放物線状に矢を放てませんし、的に当らなければ通った事になりません。 技術、腕力、体力、気力、全てが整わないと出来ない、正に耐久通し矢ですね。

 日本一は1686年に24時間で13053本の矢を射、うち8133本を通した和佐大八郎(紀伊徳川家)。 この大記録、未だに破られていません。 第二位は1669年、18時間で8000本を射通した星野勘左衛門(尾張徳川家)。

 和佐の記録は、前記録保持者の星野が紀州藩の面目を背負った若武者に哀れを感じ、和佐が星野の手当て(鬱血を取ってやった等)を受けながら果たしたという美談つき。
 あなたも挑戦してみます?

UP BACK HOME

Google
 
Googleで M.A.Tで M.A.T.searchで





   

遊・探・楽【More Amusing Tackle】 ゲーム/チャット/検索/京都の話/萌え?
copyright 2002-   More Amusing Tackle