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京都の話

京都の話 〜 京都にまつわる話を徒然に綴るコーナー 〜

Interesting story concerning Kyoto
伏見城

 おいでやす。
 ようこそ「京都の話」へご来場くださいました。 今日の話は「伏見城」と題しまして、京都伏見で数奇な運命を辿ったお城についてお話をしようと思います。

 皆さんは「伏見城」と言うお城を御存じでしょうか?  現在は「伏見桃山城」として伏見の東の山手から京都を見下ろしています。 京都で唯一の天守閣があります。
 京都でも伏見の城下は特殊な所です。 多くの酒蔵が建ち並ぶ伏見は京都市街とは違って、迷路のような城下町の町並みをしているんですよ。

 このお城は文禄元年(1592)8月、豊臣秀吉が伏見の指月の森に自らの隠居屋敷である伏見屋敷の造営を始めたのに端を発する城で、絶頂期には桃山文化の贅を極めた素晴らしい城だったそうです。
 秀吉が死んだのも伏見城、家康が将軍職の宣下を受けたのも伏見城。 安土・桃山時代の最後を飾った歴史的にも文化的にも価値ある城でした。

 このお城の天守閣は4度建てられ、3度壊されたと言う悲しい歴史を持っています。 今のお城は1600年代に壊されたものの復元城なんです。

 最初の天守閣は文禄3年(1594)3月から建築が始まった前期望楼型6層建てのもので、下層の櫓に最上層の望楼を乗せる形をしており、安土城を思わせる異国情緒漂う天守閣だったそうです。
 しかし、この天守閣は完成間も無い慶長元年(1596)潤7月、慶長(伏見)の大地震により倒壊してしまいます。

 建てられた指月山の地盤が弱かった事に加え、前期望楼型が禍いしたようです。 指月山の伏見城天守閣の構造は、二階ずつを井楼に組んで三重に重ね6階とする構法だそうで、この構法では各井楼の結束が少なく、地震に弱いらしいのです。

 二度目の天守閣は場所も変え、構法も変えられました。 前の天守倒壊直後に指月山の隣にある木幡山で着工し、慶長2年(1597)5月に完成した新天守閣。 慶長5年(1600)8月1日、関ヶ原の合戦の前哨戦で炎上するまでの4年間、桃山時代の築城の集大成として伏見に君臨しました。

 この天守閣は秀吉自身が前の天守で地震倒壊の憂き目にあった事を考慮し、地盤の強い木幡山に耐震構造で建てられました。 
 建築業界でも「日本最初の耐震構造を用いた木造高層建築」と評される天守閣は後期型望楼と呼ばれ、各階に通し柱を相互に組み合わせて、筋交いも入れて、天守全体を一体化して組み上げる構法となっているそうです。 地階から6階までの通し柱を通す構法で、国宝姫路城などでも使われています。

 慶長大地震と二代目伏見城天守閣は「日本の木造高層建築設計理論の基礎を成した」と言われているそうです。 ただ伏見城や姫路城の巨大心柱は、どのようにして運び、どのように建てられたか未だに謎が多いのだとか。
 太閤秀吉が「浪花の事も夢のまた夢・・・」と没したのはココでのこと。 慶長3年(1598)8月の事でした。

 関ヶ原の合戦で炎上した天守閣を修復したのは徳川家康。 関ヶ原の合戦後、京に城を構えたい家康は今一度伏見城を修復・整備します。 こちらは慶長7年(1602)8月に着工、慶長11年(1606)?完成と言われています。

 この天守閣は元和9年(1623)8月、三代将軍家光の将軍宣下を最後に取り壊されました(二条城に移築)。
 これは江戸幕府が定めた「一国一城の法度」によるもので、山城には淀城があったため廃城の決定がされたのです。 豪華絢爛・桃山文化の粋である伏見城は、全国各地の神社仏閣・城・御殿に移築されながら解体され、ついに石垣の一部を残すまでになりました。
 ここでは慶長8年(1603)に家康、慶長10年(1605)に秀忠も将軍宣下を受けています。

 寛永2年(1625)、伏見城は完全に放棄されます。
 廃城後、いつしか木幡山・伏見城跡には桃の木が植えられ、人々はこの辺りを「桃山」と呼ぶようになりました。 「桃山文化」と言う言葉の語源はこれですね。

 現在、木幡山は「桃山御陵」と呼ばれています。 京都が大好きだった明治天皇が、死後この地に御陵を作るように遺言した為で、二代目天守閣跡は御陵の中に有り、見る事も調査する事も出来ないそうです。(宮内庁が盲目的に閉鎖している為だとか。)

 四代目の天守閣は昭和34(1959)年10月着工、近畿日本鉄道の出資で5年の歳月を経て復元されたものです。 こちらは鉄筋コンクリート建てで、二代目伏見城を模した5層7重、全高50mの天守になっています。
 内部は桃山文化の資料館(桃山文化史館)になっており、黄金の茶室・黄金の茶器の復元、洛中洛外図屏風模写、醍醐花見図屏風模写、聚楽第復元模型など、当時の文化を伝える品々が数多く展示されています。

 いえ、展示されて「いました」・・・。

 つい最近まで、この再現伏見(桃山)城は、4度目の破壊の危機に晒されていました。 2003年1月、近鉄傘下の「株式会社 桃山城」は営業不振を理由に、併設の伏見桃山キャッスルランド(遊園地)と共に城を閉鎖、天守解体、土地売却の方向を模索したのです。
 その話は、どうやら京都市が保存に乗り出したため、解体を免れたようですが・・・。

 私は個人的に、この天守閣を永久に残しておきたいと思っています。 現在京都市唯一の天守閣でも有り、総工費6億円がもったいなくも有り。

 それよりも、歴史的に斯くまでも重要な戦いが行われた場所の記念碑として、そして、その戦いに命をかけ、今も忘れられる事無く菩提を弔われ、さらに京都の観光にも一役買っている一人の「勇将」のために。

 今からお話しする物語は「関ヶ原の合戦を東軍勝利に導いた一人の勇将」のお話しです。 私には「関ヶ原の合戦」が世に語り継がれているのに、何故そこでこの物語が語られないのか不思議でなりません。

 俗に「関ヶ原の合戦」の勝敗が決まったのは慶長5年(1600)9月15日午後1時とされています。 しかし、私見ではありますが、関ヶ原の合戦の勝敗は8月1日午後3時にほぼ決定され、9月15日午前2時には確定していたのです。



 時は慶長5年(1600)2月2日に遡る。

 前々年に太閤秀吉が逝去、前年に前田利家が死んでしまった今、大坂は徳川家康方と石田三成方に分裂する様相が濃くなっていた。
 利家の死去で豊臣家天下統一へのお目付役が無くなった所へ、秀吉の側室淀君の我儘が引き金となって、結束していた豊臣家が淀君派と北政所ねね派に分かれてしまった為である。

 女の意地の張り合いが事実上のお家分裂を招き、のちに現実の戦を引き起こすとは誰が予期した事であろう。


 そんな折も折り、会津の上杉景勝が出羽仙道諸城の修築を督励していると言う報が大坂に舞い込んだ。

 大坂城西の丸にいた家康、己が本拠地に近い所での不穏な動きを捨ておけず、また、「とある策略」を胸に抱きつつ上杉に対して詰問状を送り、その返事を待っていた。 やがて上杉家臣・直江兼続からの返書を見た家康は激怒して6月6日、徳川方将兵全軍に対し上杉攻略を下知した。

 家康が何故激怒したのか、激怒したふりをしたのかは判らない。 ともかく家康にしては珍しく、急いで6月16日に大坂出立を決めた。
 西に残すのは伏見城に鳥居元忠ただひとり。 元忠が居残りを願い出たのである。

 鳥居元忠は当時の伏見城の城主であり、若い頃から家康の片腕であった。 二人が出会ったのは家康が10歳、元忠13歳、未だ家康が今川義元の人質であった頃の事である。 それ以来元忠は今日まで徳川家の名将であり続け、家康の側近中の側近であり、親友でもあった。

 そんな元忠であったから、家康の「とある策略」を知っていて居残りを志願したのであろう。 いや、当時の情勢からして元忠以下、家康の重鎮はすでに家康の胸中を察していたと思われる。

 家康が考えている事とはこうである。
 自分の留守中に、徳川を疎ましく思う石田三成以下の淀君派(西軍)が挙兵して京都・大阪を支配下に置くであろう。 そうなれば自分は大義名分を持って(北政所を擁立して)淀君方と対峙し、戦に勝って実質上の天下の実権を握れる・・・。


 元忠には判っていた。 もし、予定通り事が成るとしても、京都の入口・伏見の地に居残る以上、己の使命が何であるかと言う事と、己の命は確実に無いと言う事を。 そして、その仕事は自分にしか出来ないと言う事も。

 家康は予定通り大坂を発った。 16日夜には一旦伏見城へ入城。 18日朝江戸へ向けて出立。
 家康のいなくなった大坂では予想通り石田三成・大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊らが家康討伐の軍議を始めていた。 三成の本拠地・佐和山城に会した4名は家康討伐総大将に毛利輝元を迎える事を決する。

 家康はこの事を増田長盛の密告により知っていた。 毛利輝元が大坂城西の丸に入り、改めて豊臣秀頼を擁立して西軍総大将とした事も。
 この時の家康の胸中、察するに余りある。 事は成就するであろう。 しかし、敵方に策を察知されずにいるには元忠といえども伏見を撤収させる訳には行かない。 つまり、家康は元忠の命だけでも助かるように神仏に祈るしか無かったのである。

 焦り不安に思う心を押し隠し、7月21日未明、家康は上杉討伐の為に江戸城を出陣した。 石田三成の挙兵の報を待ち、そして片腕の身を案じながら。


 しかし事は家康出陣の前々日に始まっていた。 7月19日、石田三成率いる「西軍」4万は既に伏見城下に殺到し、城を囲んでいたのである。 守る「東軍」1800。

 西軍は伏見城へ降伏勧告を行ったが、元忠は断固拒否した。
「この鳥居元忠、主君家康より伏見城の守護を仰せつかっている。 もし、貴殿が伏見城を欲するならば、戦で元忠から奪ってみよ。」

 そして元忠は家康に一通の手紙をしたためる。
「石田三成が軍を起こし伏見城を取り囲みました。 我々は命ある限り戦い、1秒でも長く西軍を食い止め、関東へ攻め下るのを引き延ばします。 私はこの戦いで生涯を終えるでしょう。 恐れる心はありません。」
 元忠が城内から敵軍を見ると、人馬が重なって、空き地が見えないほどであったと言う。

 この知らせが家康の元に届いたのは7月25日。 家康は諸将を招集の上、将兵の去就を問うた。 俗に言う小山評定である。 将兵の中には残して来た妻子を気遣う者も多かったが、彼等とて「誓書」を出さずに家康の元を去るものは無かった。

 これに先立って、大坂では石田三成が上杉攻めに出陣した諸将の妻子を人質にしようとしていたが、細川忠興の妻ガラシャがこれを拒み自害するという事件が起こっていた。 既に西軍の足下は崩壊の兆しを見せ、家康は確実に将兵の心を捕らえていたのである。


 一方伏見の城では、おおかたの予想に反し、伏見城の元忠率いる東軍は良く戦い、20倍以上の敵を相手に10日間を戦い抜いた。 今は無き豊臣秀吉が知恵を凝らした難攻不落の城に、死を覚悟した勇将猛者が陣取っているのであるから無理も無い。
 しかし多勢に無勢、さしもの元忠部隊も日に日に兵を減らし、今や200名となっていた。

 明けて8月1日。 西軍は大軍をもっての猛攻を繰り返し、すでに二の丸を突破して来ていた。
 西軍は未明に櫓に火を放ち、午前10時には本丸近くまで殺到、遂に天守閣までも炎上し始めた。 誰もが「これで伏見城も陥落」と確信した。

 元忠の配下は言う。

 「伏見城も最早これまで・・・。元忠殿、自害の用意をなさいませぬか?」

 しかし元忠は威厳を持ってこう言った。

 「ならぬ。 各々方はこの戦いの意味を今一度よく考えよ。 上杉討伐に遠征中の家康殿の留守中、茶坊主三成が挙兵するのは知れていた事。 我々は家康殿が兵を整え、西に向う準備が整うまで一分一秒でも奴等をここに引き止めるが使命。 我らは囮なのだ!」

 配下の者達は元忠の遠慮深謀と忠誠心に打たれ、激しく発奮する。

 「おお、そうでした! わかりました。 我々とて命を惜しむものではありませぬ。 さあ者共、突撃じゃ! 死して元忠殿、家康殿のお役に立とう! 命は惜しまず名を惜しもうぞ!!」

 元忠以下将兵200は決死の突撃を敢行し、本丸に突入しようとしていた大軍を三度押し返した。
 さらに突撃する事二度。 五度目の突撃を終えた頃には残るもの50余名・・・。
 遂に西軍は本丸に突入した。


 西軍武将 雑賀重朝は敵を求めて本丸内を彷徨う事しばしのち、一人の老将を目にする。

 「我こそは雑賀重朝! 名の有る御方とお見受けした。 いざ、勝負!!」

 老将は傷付き、槍を杖にしながらも強く、そして静かにその名を名乗った。

 「私は伏見城を預かる鳥居元忠である。」

 これを聞いた重朝、敵大将ながら天晴れな元忠を前に思わずうやうやしく跪いた。

 「元忠殿でございましたか。 是非お聞き届け下さいませ。 もはや伏見城は燃え、戦は終わりにございます。 今は御静かに御自害をなされませ・・・。」

 これを聞いた元忠、敵将の心遣いを受けて鷹揚に頷いたという。

 「うむ、かたじけない。 それでは御免。」

 見事な策略、見事な戦い、見事な忠誠、見事な引き際・・・。
 元忠と生き残った勇将達は伏見城の大広間に集うた。
 重朝の取り計らいにより、大広間は閉ざされた。

 元忠以下残る将兵、自刃。 元忠享年62歳。
 伏見城8月1日午後3時陥落。 守勢1800全滅、西軍死傷3000。


 しかし、家康と元忠の目的は達成された。 元忠は見事、家康に12日間の有余を与えた。 この12日間が無ければ、東進する西軍は家康の故郷三河までも蹂躙していたかも知れない。
 伏見城守兵全滅を見届けた西軍は城内も周辺も放置のまま、急ぎ大垣に向かう準備を始めた。

 そしてこの46日後の9月15日未明、石田三成は日本合戦史上最も不様な作戦を敢行する。 大垣城を夜間退却、関ヶ原に野戦陣を敷いたのだ。 心理的にも心身の疲労の上でも、これほど馬鹿げた作戦は他に類を見ない。

 東軍7万の大垣進出が余りにも早かったため、狼狽し切った三成は作戦の肝心な部分をを決する事が出来なかった。
 さらに家康の軍勢が三成のこもる大垣城を無視して赤坂高地から三成の本拠・佐和山に進撃したのを見て、焦りまくった上での奇怪な行動であった。

 翌朝未明、関ヶ原に会した東軍7万・西軍9万は昼過ぎまで激戦を続けた。 いや、これだけの大軍の決戦の割に、実にあっさり決着が付いたと言うべきであろう。

 結果は東軍の大勝。 世に言う関ヶ原の合戦である。


 戦いが済んだ関ヶ原の地で、家康は遠く西の空を見上げたに違い無い。 家康には8月17日の夜の事が昨日のように思い出された。

 「元忠よ。今回は城の守備隊に人数が裂けぬ。苦労かけて悪いな。」

 「殿、お言葉は嬉しゅうございますが苦労と言う事はありません。」

 「何故だ、元忠?」

 「三成が乱を起こして伏見を責めるのであれば、仮に2万の兵を持っても城を守る事はできますまい。 城を出ても辺りは敵ばかり、かと言って大兵で篭城すれば兵糧がもちません。 ならば殿の遠征に兵を連れて行かれるべきです。 覚悟はできておりますよ。」

 「・・・。」

 流石の家康も言葉がつげなかった。 思わず家康は昔話に話を変える。

 「・・・そういえば元忠よ。 13才の頃を覚えているか? あれ以来元忠はずっと儂と苦労を共にしてくれたのだなぁ・・・。」

 「そうでした・・・。」


 元忠と家康は長い間、昔話に花を咲かせたと言う。


 「殿、明日は早朝より大切な御出立。 お休みなされませんと・・・。」

 「おお、すまぬ元忠。 そうしよう。」

 そして元忠はついに最後の言葉を口にした。

 「殿・・・。 三成挙兵のことあるならば、今宵が今生の別れとなりましょう・・・。 いざ、さらば!」

 家康は何も言えなかった。 元忠は涙ながらに立ち上がろうとしたが、武田信玄との戦いでの足の深傷が癒えていない。
 家康が隣の間に控えていた小姓達に声を掛けた。

「誰か、元忠の手を引いてやってくれぬか?」

 小姓達はすぐに来てくれた。 しかし襖を開けてすぐ・・・その場から静かに立ち去らざるを得なかった。



 あの家康が、あの冷酷なタヌキおやじ家康が・・・
 我を忘れて号泣していたのだ。



 関ヶ原の合戦から3年後、家康はその伏見城で、征夷大将軍の宣下を受けた。
 遂に天下をとったのである。

 元忠、草葉の陰で小躍りしたのか、それとも、当然とばかりに微笑んだか。

 今は昔、徳川十六将 一の勇将の物語。

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