おいでやす。
ようこそ「京都の話」へご来場くださいました。 今日の話は「伏見城を探せ!」と題しまして、江戸時代に解体されてしまった「桃山文化の集大成」である伏見城の断片を探してみた結果レポートをお届けしましょう。
先ずは「伏見城」を御覧になっていらっしゃらない皆さんのために、少し伏見城についてお話をしておきましょう。
伏見城は1594年、豊臣秀吉により京都伏見に築城されたお城で、桃山文化の粋を極めた豪華・壮麗な城でした。 太閤秀吉はこの城で「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪花のことも夢のまた夢」と歌い、この世に別れを告げました。
1600年、伏見城は関ヶ原の合戦の前哨戦の舞台となります。 その時城と運命を共にした「鳥居 元忠」と将兵たちが切腹した大広間の床板を「血天井」として京都各地のお寺に収めているのを御存知の方も多いでしょう。
1603年には同じ城で徳川家康が「征夷大将軍(徳川幕府 初代将軍職)」の宣下を受けます。
ところが1623年、幕府の定めた一国一城制により、山城の国では淀城を残して他のお城は解体・廃棄される事になりました。
この時、伏見城は京都や他の神社・仏閣・城などにパーツを移築しながら取り壊されて行ったのです。
今回の京都の話は、この「移築されたパーツは今どこに?」を徹底的に追ってみました。 京都を代表する伏見城。 歴史的・文化的に大きな価値がある伏見城は、今何処にいるのでしょう。
この言い伝えが正しければバラバラとは言え、伏見城のパーツがどこかにあるはずです。
現に、京都の各地に「伏見城を移築した」と言う建物がたくさんありますし、前述の「血天井」も伝説によれば10箇所に分かれて今も供養されているはずです。 広島・福山城の「伏見櫓(ふしみやぐら)」などは有名ですね。 これは間違いないものと言われています。
今回の調査の結果、移築された伏見城のパーツを意外な所で見つけました。 ざ〜っとご紹介しますので、お楽しみくださいな。
先ずは前述の「血天井」です。
関ヶ原の合戦前哨戦で西軍4万人に襲われた東軍・鳥居元忠以下1800の軍勢は必死の戦いの末、自害を余儀なくされます。
この時、切腹の場所に使われた大広間(一説には廊下)の床には、切腹した将兵たちの血が流れました。
この戦いは関ヶ原のわずか四十数日前。 西軍はこの遺骸を弔う間もなく東に向いて出陣します。
関が原の合戦で勝利を収めた家康の命を受け、配下が家康の旧友であり最愛の側近武将であった鳥居の元を訪ねた時、むごい事に、遺骸は放置されたままだったそうです。
長い間放置され、血が染み込んでしまった床板の血痕は将兵たちの手足や顔、兜、鎧直垂の跡がくっきりと残った状態になっていました。 拭いても拭いても取れなかったそうです。 人々は「将兵たちの無念が現れたもの」と噂しました。
哀れに思った人々は「再び廊下として使用して人々に踏まれては彼らが浮かばれないだろう」と、京都の10箇所の寺院の天井板として移築し、その霊を弔うことにしたのです。
ちなみに今から御紹介する血天井は、現代の科学鑑定の結果、「桃山時代末期の人の血液痕に間違いない」と言う本物の血天井です。 鎧のあと、手の跡、引っかいたあと、倒れた人型、場所によっては非常にリアルなものもあります。
養源院 (京都市東山区東山七条)
血天井では一番有名ではないでしょうか。 豊臣秀吉の側室淀君が、父・浅井長政のために建てたお寺です。 一旦火災で焼失しますが、淀君の妹で徳川秀忠夫人の崇源院が伏見城の中御殿を移構して再建。 以来、徳川家の菩提所となっています。 このお寺の襖絵と杉戸絵は「俵屋宗達」作ですが、自刃した将兵を弔うため、全て仏典に関係のある動物の絵が描かれています。
正伝寺 (京都市北区西賀茂)
鎌倉時代に創建された臨済宗の古刹。 小堀遠州作と伝えられる「獅子の児渡し」と呼ばれる枯山水の名庭があります。 この庭園を眺める廊下が血天井になっています。 こじんまりとした静かなお寺です。
宝泉院 (京都市左京区大原)
京都大原三千院のすぐ傍にある「勝林院」の塔頭で、声明(しょうみょう)の寺として有名です。 樹齢600年の五葉松と額縁庭園は見るものの心を癒します。 水琴屈の調べも美しいお寺です。 が、客殿の廊下は全て血天井です。 御住職が「笑顔で」詳しく御説明下さいます。
源光庵 (京都市北区鷹峯)
「悟りの窓」という丸窓と、「迷いの窓」という四角い窓で有名なお寺です。 とくに紅葉の時期には、窓から美しく見事な景観が楽しめます。 こちらも廊下部分が血天井になっています。
興聖寺 (京都府宇治市宇治山田)
宋の留学から戻ってきた道元が、越前の「永平寺」を開く前に伏見に建立したお寺です。 戦乱で一時廃絶になっていましたが、江戸時代に宇治に再興されたそうです。 この時、伏見城の遺構を移築して本堂としています。 手形の残る天井も、この時に搬入されたようです。
ここからは「移築された」と言い伝えの残る建物です。 マジで意外な所にあったりします。 皆さんの御住まいの近くにありませんか?
廃城が決まった伏見城は、その意匠の素晴らしさと家康の威光からか、京都はもとより全国に遺構が移築されています。 もし、これ以外にご存知でしたら、教えていただけると有り難いのですが・・・。
京都市
二条城「唐門」 (元 伏見城「唐門」:国宝)
御存じ京都二条城の東応天門をくぐって左方向に進むと豪華絢爛、桃山時代最大級の唐門が見えます。 こちらは後述の西本願寺唐門(日暮門)と同じ、伏見城の唐門が移築されています。
二条城「天守閣」 (元 伏見城「天守」:倒壊)
同じく二条城の天守閣は、伏見城の天守閣を移築したものでした。 残念ながら度重なる災害のために本丸・天守閣は失われてしまいましたが、二条城には今も「天守台」が残っています。
御香宮神社「表門」 (元 伏見城「大手門」)
御香宮神社「塀石」 (元 伏見城「石垣」)
御香宮神社「石積」 (元 伏見城「石垣(残石)」)
御香宮神社「拝殿」 (元 伏見城「車寄」)
京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅から徒歩2分、国道24号線沿いに建つ神社は「伏見の名水・御香水」が湧き出して、その水を飲んだ病人がたちまち治ったとされる所にあります。 こちらの神社、「神宮」ではありませんが神功皇后・仲哀天皇・応神天皇を御祭りし、7世紀から続く古い神社です。 ここには伏見城の大きな建物2つと、石垣を利用した塀が残されています。 残石は本当に「残石」で、乱雑に積み上げられています。
こちらの本殿は家康が再建させたものだそうです。
豊国神社「唐門」 (元 伏見城「唐門」:国宝)
豊国神社はその名が示すとおり「豊臣」ゆかりの神社です。 こちらの唐門も伏見城から移築されたもので、万事派手好きの秀吉にぴったりな豪華さと桃山時代特有の作りを伝えています。 京都東山七条あたりは秀吉ゆかりの建物が多い事で有名です。
高台寺「表門」(重要文化財)
こちらは高台寺道からすこし外れていますが、昔の高台寺の寺領の表に当る場所なんでしょうか。 ひっそりと佇む表門には「伏見城の数ある門の一つ」と言う言い伝えが残っています。 高台寺は御存知の通り、北政所ねねが暮らしたお寺であり、家康や利家と親しかった北政所ですから、伏見城の遺構が残っていても不思議ではありません。
高台寺「傘(からかさ)亭」(元 伏見城「茶席」:重要文化財)
高台寺「時雨(しぐれ)亭」(元 伏見城「茶席」:重要文化財)
この2つは千利休意匠の茶室で、高台寺も公認の「伏見城の遺構」とされています。 利休らしい質素な御茶室ですが、何故かほっとする不思議な建物です。
高台寺塔頭「円徳院」 (元 伏見城「化粧殿」)
このお寺は「ねね終焉の地」として有名なお寺で、高台寺の塔頭にあたります。 こちらのお寺は「円徳院ねね(元北政所)が思い出深い伏見城の化粧殿とその庭を全部移築したもので、桃山時代の庭園を見る事が出来る数少ない場所にもなっています。
西本願寺「日暮門(唐門)」 〈元 伏見城「唐門」:国宝〉
「その意匠の素晴らしさを眺めていると、日が暮れるのを忘れてしまう。」と言われ、いつしか「ひぐらしもん」と呼ばれるようになった桃山時代の代表的な門は世界文化遺産にも登録された西本願寺の南端に位置します。 本当にその装飾は圧巻です。
西本願寺「書院(鴻の間)」 (元 伏見城「対面所」:国宝)
この書院はもともと南の対面所(鴻の間:国宝)と北の書院(国宝)であったものが後に一つにつながれたものだそうです。 このうち、南にあった対面所が伏見城から移築されたものだそうで、狩野派の渡辺了慶筆の障壁画、金色に彩られた天井などが超豪華さを演出しています。
南禅寺「小方丈」 (国宝)
南禅寺の方丈は大小2つの方丈からなっており、このうち大方丈は内裏の清涼殿を移建したもの、小方丈が伏見城の遺構とされています。 狩野探幽筆の群虎図(重要文化財)40枚に飾られた室内は、これも桃山時代を感じる素晴らしい作りになっています。
二尊院「総門」 (元 伏見城「薬医門」)
京都市右京区嵯峨二尊院にあるこのお寺は観光客も少ない、とても静かなお寺なのですが、法然上人に縁が深く、京都では有名なお寺です。 秋になると有名な「紅葉の馬場」を見に、たくさんの方が参拝されます。 こちらの総門は小さいながらも堅牢な感じで、いかにも城の遺構の雰囲気ですが、これが伏見城の遺構であると言うことは意外と知られていないようです。 このお寺、実は時代劇の撮影に良く使われているんですよ。
常寂光寺「本殿」
京都市右京区嵯峨小倉山、こちらは紅葉で超有名なお寺ですね。 シーズン中は近付きたくないお寺の一つです。 「小倉百人一首編纂の地」としても知られていますが、ご存知でしたか? 藤原定家の山荘の跡地です。 こちらの本殿はとても落ち着いた雰囲気で、唐門や書院とは対照的ですが、これも伏見城の遺構とされています。
源空寺「山門」
このお寺は伏見城下、京都伏見にあります。二層建ての山門としては珍しい感じの山門が伏見城遺構と伝えられています。 この他にも、当時の伏見城内から移されたと言う「朝日大黒天」・「即一六躰地蔵」が祀られているなど、伏見城に非常に縁が深そうな感じです。
正伝寺「方丈」 (元 伏見城「御成殿」:重要文化財)
血天井でもご紹介したこのお寺の方丈も伏見城の遺構の一つです。
養源院「本堂」 (元 伏見城「中御殿」)
こちらも血天井のところでご紹介しました。 徳川秀忠が移築したとの記録、お寺自体が徳川菩提所であるなど、納得です。
大雲寺「本堂」 (元 伏見城「武所」)
京都市左京区岩倉にあるこのお寺の本堂も伏見城の遺構と伝えられています。 私も訪れた事がありませんし、文献にも詳しく載っていないので、良く判りません。
淀城「石垣」 (元 伏見城「石垣」)
京都市伏見区淀、京阪電車淀駅からも見える石垣は、伏見城の石垣も運んで増築・改装されたものだそうです。 古文書や研究により、この石垣が伏見城の石垣を壊して作られたものに間違いは無いとされています。
京都府宇治市
平等院塔頭「養林院 書院」 (重要文化財)
一度行って見ないといけないんですが、行った事がないです。 小さな書院のようですが、襖絵などが有名だそうです。 建物自体は落ち着いた感じの書院らしい書院のようです。
興聖寺「本殿」
こちらも血天井のところでご紹介しました。 中国風の山門が目立ちます。 本殿拝観は予約制です。
滋賀県
西教寺「客殿」
滋賀県大津市坂本にある西教寺は聖徳太子が開いたとも伝えられる古寺。 明智光秀に縁が深く、光秀のお墓もあり、近くには坂本城址もあります。 こちらの客殿が伏見城の遺構と伝えられています。
大通寺「本堂」 (重要文化財)
大通寺「大広間」(重要文化財)
滋賀県長浜市にあり、 「長浜御坊さん」として親しまれている大通寺は1570年頃(天正の始め頃)に出来たお寺といわれています。 長浜と言えば秀吉に縁の地ですね。 こちらのお寺にも伏見城の遺構が譲られたようです。
宝厳寺「観音堂 唐門」 (国宝)
滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島、その唐門は京都東山の豊国廟の唐門を移築したものと伝えられるのですが、一部では「元は伏見城にあったもの」と言う説もあるようです。
都久夫須麻神社「本殿」 (国宝)
こちらも滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島にある神社です。 豊臣秀頼が伏見桃山城の遺構を移築したと伝えられます。 前出の宝厳寺伝説とは逆に、一部では「豊国廟を移築したもの」と言う説があるようです。 内部には狩野光信の筆と伝えられる襖絵、天井画、金色に彩られた豪華絢爛な作りだそうです。
大阪府
大阪城「石垣」 (元 伏見城「石垣」)
御存じ大阪城の石垣の修復に、伏見城の石垣の一部が利用されているそうです。 大阪城天守閣自体は昭和の再興(鉄筋コンクリート・エレベーター付き!)ですが、石垣や建物の一部は昔のままだそうです。
大阪城「伏見櫓」 (元 伏見城「櫓」:焼失)
こちらは「本当に伏見城の遺構か!?」と物議をかもした櫓だったのですが、当時の研究では「伏見城の遺構では無かった可能性が高い」とされていたようです。 北外堀北西角に建っていましたが、残念ながら第二次世界大戦中に焼失、迷宮入りとなってしまいました。
岸和田城「伏見櫓・門など」 (破却)
伊勢街道の要所に建っていた岸和田城、その西北角には伏見城から移築された櫓と門があったようです。 こちらは明治維新の廃城の際に破却されてしまいました。 現在の復興岸和田城二の丸で面影を見る事ができるそうです。
奈良県
大和郡山城「城鉄門」 (焼失)
大和郡山城「一庵丸門」 (焼失)
大和郡山城「桜門」 (焼失)
大和郡山城「西門」 (焼失)
何れも奈良県大和郡山にある大和郡山城にあったそうです。 現在は石垣以外当時の建造物は残っていません。 (跡地は桜の名所になっています。)
兵庫県
瑞宝寺公園「山門」
兵庫県有馬温泉・・・。 随分京都から離れてきました。 この有馬温泉の山手に位置する瑞宝寺公園は秀吉が利休と毎年訪れて紅葉を楽しんだ公園だそうです。 この公園の入り口にある山門は伏見城の門の一つだと伝えられています。
姫路城三の丸「武蔵野御殿」 (焼失)
世界文化遺産・国宝姫路城にも伏見城遺構があったそうです。 こちらは本多忠刻・千姫夫妻のために徳川家康と本多忠政が伏見城より移築・改修したもので、それまで政略結婚・豊臣家滅亡・猛火の大阪城脱出などの苦難を味わってきた千姫が本当の幸せを掴んだ場所でした。 残念ながら明治15年(1882)の姫路城出火で燃えたそうです。 現在も城内には「武蔵野御殿跡」の碑が立てられています。
姫路城「菱の門」 (重要文化財)
姫路城内最大の門で三の丸と二の丸の間に堂々と構えています。 ハッキリした事は判らないのですが、一説に伏見城の遺構ではないかと言われています。
明石城「坤櫓(ひつじさるやぐら)」 (元 伏見城「櫓」:重要文化財)
兵庫県明石市にある明石城。 こちらの本丸には、一層に千鳥破風と唐破風が両方使われた(第二層目)美しい櫓があります。 これが伏見城遺構「坤櫓」で、明治34年の宮内庁による修復を経て現代に伝えられる由緒正しい遺構です。 阪神淡路大震災にも耐えて、今もその姿を見る事ができます。
広島県
福山城「伏見櫓」 (元 伏見城「櫓」:重要文化財)
福山城「筋鉄門」 (重要文化財)
福山城「御湯殿」 (元 伏見城「湯殿」:焼失復元)
何れも広島県福山市に残されています。このうち「伏見櫓」は櫓としては大変立派な建物で、本丸の隅に移築当時のまま残されています。 「筋鉄門」は本丸への正門で、堅牢な作りは「もしかしたら伏見城でも、同じような重要な門として使われていたに違いない。」と思わせます。 福山城は在りし日の伏見城に似ているそうで、桃山時代の豪華さはともかく、城郭としては非常に参考になる作りだそうです。
東京都
江戸城(皇居)「伏見櫓」 (元 伏見城「櫓」:倒壊復元)
非常に美しい櫓として有名だったのですが、関東大震災で倒壊してしまいました。 現在は復元された伏見櫓が美しい姿を御堀に写しています。
宮城県
仙台城(青葉城)「大手門」 (焼失)
仙台市博物館に写真が残っているものの、第二次世界大戦で焼失。 こちらも「一説に」ではありますが、伏見城の門を移設したものと言う説が残っています。 ついに東北にまで伏見城の遺構説が広がりました・・・。
「観瀾亭」 (重要文化財)
こちら、松島にある御茶室・・・。 「豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したものと伝えられるもの」だそうで、紛れも無く「伏見城」の遺構のようですね。
北海道
松前城「本丸表御門」 (重要文化財)
ウソか誠か・・・。 松前城は別名「福山城」と呼ばれておりますので、前出の広島県福山城と何かの勘違いだろうと思っていたのですが、「本丸表御殿が、それだ。」と言われてしまったのでは疑う余地が有りません。 北海道にも伏見城の遺構が・・・。
京都から随分はなれた遠い所にまで「伏見城」の遺構があるものですね。 御近くにあるようでしたら、ほんのひと時、京都の風情を楽しんでみられては如何でしょうか?