ここは通称「展望台」と呼ばれている場所です・・・が、眼下の景色をご紹介するのは四ツ辻に着いてからにしましょうね。 そのほうが綺麗ですから。
この階段を登りきると「四ツ辻」に出ます。
さて皆様にはここで「お稲荷さん」の起源をお話しておきましょう。
皆さんは秦氏・賀茂氏をご存知でしょう。 日本文化のパイオニアである両氏は歴史・社会で必ず紹介されています。 賀茂氏は「鴨川・上賀茂・下鴨」など、秦氏は「太秦(うずまさ)」などの地名にも見られるように、平安・・・と言うより日本の文化の基礎を築いた氏であり、藤原氏が政権を握るまでは朝廷でも重用された渡来人系の人々です。
「日本書紀」と「山城国風土記」によると、お稲荷さんは秦氏に縁が深いことがわかります。
日本書紀には、欽明天皇(531?即位)の子供の頃の逸話として、『秦大津父(はたのおおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょうと夢告を受けたので方々を探させたところ、山背国紀伊郡深草里(深草=京都市伏見区の東端・稲荷山に近い)にその人物が実在した。 彼は稲荷山近くで2匹の狼が争っている様を見て、それが神様であることに気付き、争いをやめて山に帰るようにお勧めしたことがあった。』と言う話が載っています。(「狼=おおかみ=大神」と解釈する)
山城国風土記には、その200年後の和銅四年(711)2月初午の日の出来事として、次のような話が書かれています。
『秦伊呂巨(具)(はたのいろこ、または、はたのいろぐ)が矢を射るために餅で的を作った。 この餅の的を目掛けて矢を放ったところ、餅はやおら白鳥に姿を変え、かなた(秦氏の本拠は映画村で有名な太秦であり、京都の西にある。 一方、稲荷山は京都の東南にある。)へと飛んでいってしまった。 伊呂巨が追いかけてみると、白鳥は1つの峰の3ヶ所に舞い降りた(しらとりが初めから3羽であったのか、1羽が3ヶ所に降りたのかは不明)。 白鳥が舞い降りた場所には不思議な事にたわわに稲が実っていた。 伊呂巨は神様のなされたことであるとし、白鳥が舞い降り、稲が実った3ヶ所に上社・中社・下社を建てて神を祀った。』
伏見稲荷大社としては、稲荷大神様の御鎮座を山城国風土記による和銅四年(711)としているようです(ホームページにて「おいなりさん物語」というフラッシュアニメを見ることができます)。
「お山めぐり」の「一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰」はそれぞれ上社神蹟・中社神蹟・下社神蹟とされ、この場所に白鳥に姿を変えた神様が降り立ち、稲を生らされたことから「稲生(稲荷)」と称されるようになったようですね。